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体罰反対は反対

最近身近なところであった、学校の運動部の話。

 監督が練習中に部員を叩いた。
 それを知った匿名の保護者が担任に話をし、その後その監督から部員が指導を受けられなくなって、自主練習となっている。その保護者は叩かれた部員の親ではないし、叩かれた学生もその保護者も指導の一部としてとらえ、問題にしていない。被害者がいないということだ。それなのにどうして、そうなってしまうのだろう。

 部員には、監督の評判はとても良く、是非指導を続けてほしいと思っている。これまで、1回も勝てなかった運動部が、勝てるようになってきた。

 保護者会も存在し、その中で問題にしているのは、匿名の(とはいっても誰かはわかっているらしい)保護者だけ。それでも保護者会として、「監督を支持するから指導を再開して欲しい」とは言わないのが情けない。
 これは、「体罰反対」という言葉にだれも逆らえない空気が、日本人の思考を止めてしまっているからではないだろうか。
 「教育に必要で有効的な体罰は認める」と、宣言すればよい。

 それを受けた学校がどう判断するか見ものではあるが、良い教育をするということと、マスコミにたたかれないと言うことを天秤にかければ、後者に傾くのが常識というものであれば、結論は見えているような気がする。

 保護者会が、熱血体罰監督を押す、校長が体罰監督を解任するという対立がマスコミに取り上げられたら面白いのに、と思ってしまうのはちょっと無責任か。

 今でも日本のあちこちに、熱血体罰監督は存在し、信頼されているのであれば何も問題は発生しないし、暖かく見守っているのではないだろうか。
 少数の違った考えをする人がいて、その人の言ってることが「正論」と見える場合、その意見に散々かき回される日本の社会は変だと思うのは私だけだろうか。

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コメント

古い記事にコメント失礼致します。

体罰の最大の問題点は「体罰を行う大人たちが、子供たちを支配することに快感を覚えてしまう」ということです。

そして、「体罰を行いたい」という欲求を我慢できなくなります。「愛ゆえに」とか「躾け」とか「我慢を教える」とか言う巧妙な言葉で誤魔化します。

子どもたちは言葉にはしませんが、大人たちの心理に気付いています。しかし、それを口にした子供には呪いが降りかかります。

体罰を行う者は体罰を行うことによって自分自身の過去(かつての大人たちに体罰を受けたこと)を正当化、理想化し、自分がかつて殺さねばならなかった幼い自分(泣いたり、笑ったり、怒ったりする人間らしい自分)を再度殺しているのです。

体罰は悪だと思います。

生徒が思い通りにならないと、女子だろうと鼻血が出ても殴り続け、管理主義・全体主義教育を正義と言い張る教師が担任だった。その教師の口癖↓
「俺に殴ってもらえた事をお前らは将来感謝すんだよ」

ある日、勇気を出して聞いてみた。
「どうして感謝すると分かるのですか」
「俺や仲間がそうだったからだよ」
「先生や仲間の例がどうしてみんなに当てはまると分かるのですか」
「じゃあおまえ、社会に出て、礼儀知らなくて困っても良いのかよ!」
「礼儀を知らなくて困るかもしれないぐらいなら殴られた方が良いとは思いません。そもそも礼儀の勉強をするのに、どうして殴る必要があるのですか」

こんな話をしていたら突然殴られ「舐めたこと言いやがって」「ガキのくせに」「殺すぞてめえ!」「普通にやるぞコラ!」などと威嚇と脅迫を繰り返し「お前らもやってやれ」と集団リンチを命令し、鼻が曲がり前歯が6本折れるまで同級生から殴られ続けた。
さすがに当時としても問題になり、その教師は隣町の学校に飛ばされたが、一言も謝罪は無し。

当然、感謝など一度もした事は無く、あの教師を永遠に憎んでいる。

経験者としての結論は、
「こうなるかも知れない位なら、こうする方が本人のためになる」と言う「自分」の価値観を「本人」に押し付けておいて、正義面するのは偽善者であり、偽善の仮面が剥がされそうになると暴力・脅迫・威嚇で押し切る、と言う事に利用された体罰に断固反対。

体罰必要論は無能教育者の責任転嫁に過ぎない。URLご参照ください

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